2022年04月13日

日本史「農耕社会の成立」邪馬台国連合

日本史「農耕社会の成立」邪馬台国連合

◆問題

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中国三国時代の「魏志」倭人伝によると、倭国では(@)の終わり頃に大きな争乱がおこった。そこで諸国は共同して卑弥呼を邪馬台国の女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまった。邪馬台国を中心とする29国の小国の連合がうまれた。卑弥呼は239年、魏の皇帝に使いを送り、「(A)」の称号と金印などを贈られた。

邪馬台国では大人と(B)などの身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整い、市も開かれていた。卑弥呼は晩年、(C)国と争ったが247年頃亡くなり、国内が乱れた。そののち卑弥呼の宗女の(D)が王となりおさまった。266年晋の都洛陽に倭の女王が使いを送った。邪馬台国の所在地については、近畿説と九州説がある。


解答はこのページ下


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日本史用語集 改訂版 A・B共用


@2世紀、A親魏倭王、B下戸、C狗奴、D壱与(台与)

中国三国時代の「魏志」倭人伝によると、倭国では2世紀の終わり頃に大きな争乱がおこった。そこで諸国は共同して卑弥呼を邪馬台国の女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまった。邪馬台国を中心とする29国の小国の連合がうまれた。卑弥呼は239年、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印などを贈られた。

邪馬台国では大人と下戸などの身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整い、市も開かれていた。卑弥呼は晩年、狗奴国と争ったが247年頃亡くなり、国内が乱れた。そののち卑弥呼の宗女の壱与(台与)が王となりおさまった。266年晋の都洛陽に倭の女王が使いを送った。邪馬台国の所在地については、近畿説と九州説がある。


前の問題→小国の分立
次の問題→古墳の出現とヤマト政権


原始・古代まとめ


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posted by えま at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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