日本史「平城京の時代」藤原氏の進出と政界の動揺B
◆問題
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政治情勢や社会の動揺のもと、聖武天皇は仏教の鎮護国家の思想により国家の安定をはかろうとし、741年に(@)を出し、諸国に国分寺・国分尼寺をつくらせた。743年には(A)で大仏造立の詔を出した。745年に平城京に戻り、752年に聖武天皇の娘の(B)の時に、大仏の開眼供養の儀式がおこなわれた。
(B)の時代には、(C)が光明皇太后と結んで勢力をのばした。757年橘諸兄の子の橘奈良麻呂は(C)を倒そうとするが滅ぼされた(橘奈良麻呂の変)。(C)は淳仁天皇を擁立すると(D)の名を賜り、760年太政大臣となった。
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日本史用語集 改訂版 A・B共用
@国分寺建立の詔、A紫香楽宮、B孝謙天皇、C藤原仲麻呂、D恵美押勝
政治情勢や社会の動揺のもと、聖武天皇は仏教の鎮護国家の思想により国家の安定をはかろうとし、741年に国分寺建立の詔を出し、諸国に国分寺・国分尼寺をつくらせた。743年には紫香楽宮で大仏造立の詔を出した。745年に平城京に戻り、752年に聖武天皇の娘の孝謙天皇の時に、大仏の開眼供養の儀式がおこなわれた。
孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂が光明皇太后と結んで勢力をのばした。757年橘諸兄の子の橘奈良麻呂は仲麻呂を倒そうとするが滅ぼされた(橘奈良麻呂の変)。藤原仲麻呂は淳仁天皇を擁立すると恵美押勝の名を賜り、760年太政大臣となった。
前の問題→藤原氏の進出と政界の動揺A
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原始・古代まとめ
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2022年05月24日
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